雲上山佛乗院善光寺縁起


 記録によると『上野国郡村誌(群馬郡村誌)』に平安時代初期の「大同二(佛1372・西807)年丁亥傳教大師開基創建」と云われ、『下川淵村誌』には「その昔、聖徳太子が広く仏法興隆に努められ四十六願の本誓を立て、四十六所如来の道場を建てられた。本寺はその一つ」で、「こうした霊場の故をもって鎌倉将軍源頼朝が深く帰依して、その母常盤の菩提のために、朱印三十三石を寄進した。爾来星霜幾百、堂塔伽藍の旧態なく、また火災にあったので、旧記悉く滅び、ただ口碑として、以上のように伝えられた。」とある。明治期の『寺院明細帳』にも同様の記述があり、『下川淵村誌』の記述はこれを敷衍したものと思われる。村誌本文中の数字「四十六」は「四十八」の誤りであろう。

 寺に伝わる過去帳には中興開祖再建を成した覚祐和尚を第一世と記しているが、惜しむらくは在年の記述が無い。下って第十世永源和尚の没年を「永禄丁卯(永禄十年。佛2132・西1567)二月十九日未刻四十四歳遷化」と記している。戦前までの住職異動の時代に三十二世賢順和尚が2499(西1934・昭和9)年に善光寺より異動するまでの367年間に22人が住職に就いていることから、凡そ一代あたり約16ー7年ということになるので、第一世覚祐和尚の年代を1970頃(西1400頃・室町時代初期、足利義満のころ)に比定して差し支えないと思われ、それより前に火災に見舞われたのであろう。創建より中興に至るまでの記録は残っていないが、伝承により聖徳太子や傳教大師にその由来が仮託される如き古くからこの地に布教伝道の礎を築いていたことを窺い知ることができる。境内に残る五輪塔は十四世紀前半の様式を示す。

 江戸幕府の時代になり、寺請制度と寺院の本末制度導入により地方に至るまで幕府の寺院管理が進められた。幕府の政策に関わった天台宗の慈眼大師天海和尚は東叡山寛永寺を開山し、上州世良田長楽寺の住職となり、一帯の寺院は長楽寺の末寺となった。当寺も長楽寺の末寺となり、三代将軍家光より十四代将軍に至るまで朱印三十三石が与えられていた。

 江戸時代中期において二十二世智貫和尚が傑出し、2304(西1739・元文4)年に宝篋印塔を建立した。その後榛名山の光明寺に移った後も観経曼荼羅の寄進をおこなっている。

 次の二十三世貫亮和尚によって鐘楼の建立が為されたが、この鐘はかつてのアジア太平洋戦争の鉄類の拠出により失われた。

 戦後の窮乏期を経て、檀信徒の信心篤く近年に至って堂塔伽藍の復興が進められた。宗祖傳教大師ご出家得度一二〇〇年慶賀大法会を記念して鐘楼の再建が計画され、2544(西1979・昭和54)年に完成した。そして天台大師一四〇〇年大遠忌を記念して2561(西1996・平成8)年には本堂の改修が成されたのである。

(2566.5.13)


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